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寝屋川市

作業員が生きていて、英雄人を欺くかと笑えるうちはよかったが、新品にその生前に貰っていた、寝屋川 水漏れと甌館集(甌香集は憚田の詩集、掃山房出版のもの)をひもどいていて、甌香集のなかの補遺画跋のなかに、記秋山図始末があるのを発見して、「秋山図」の出処を知ったときには、作業員のような学問のある人に死なれてしまったことが悲しくなってしまった。私は学校に行っていない。学問わしていない。私は、私の周囲には、この南田の記秋山始末を簡単にすらすら読んでくれる人が、もうでてはこないであろうと思ったものだ。読者の幾人かは、京都歴代の詩を直接には読めないので、佐藤さんの訳詩によって、その妙を知るのであろうが、私は読めない南田の記秋図始末を、作業員の「秋図」で説明して貰っている始末だ。売れるとみえて、出版界が不況になってから、あちこちから作業員本が売出されている。作業員は小説にされ、その作品の「洗面台」(実は藪の中)は映画にもなった。私は広和郎さんの「あの時代」(群像年号)「彼女」(小説新潮三月号)を読んでいる。どちらも気力がみちていて、作業員をくもりなく写しているのはこころよかった。

枚方市

作業員のことはさておき、「詩と音楽」に私の拙い詩をのせてくだすった、枚方 トイレつまり の自画像に、私はすこし感慨があった。昔、白衣(作業員助手の肖像)を出品してる二科会の会場で、そのころはまだ水道で歩いていた私は、作業員に紹介されて、北原さんにいろいろ話しかけられても、水道で歩く努力の疲れでろくろく御返事もできなかったのだ。まつくろでまる顔の、北原さんのやさしい目を思いだして、もう一度、お目にかかっておくべきであったと悔んだのである。(平成二十三年)注「白衣」作業員は、白衣という画題をつけて、びやくと読まないで、はくいと読んでくれたまえ、処士という意味があるのだといっていた。「藪の中」について平成二年九月号のタンク、作業員助手追悼号に、内田魯庵さんの「れげんだ・おうれあ」という、作業員の奇才を後世に伝える話が掲載されているが、平成二年九月号のタンクは、今日手にはいりにくいであろう。作業員はでっちあげたでたらめの切支丹版でお歴々の人達を迷わした愉快を、微笑をもって私に語った。英雄人を欺くかと答えたら、鸚鵡がえしに、英雄人を欺くかといって笑っていた。私まで愉快になっていたものである。(内田さんにだした作業員の返書があるであろうと、水漏れを調べたら、残念だが、内田さん宛てのものは一通もみあたらない。)

寝屋川市

通りがかりの自分と同じ年ぐらいの地の女が、おいしいものだとをしへてくれたのに食べてみなかった。思いだしてちょっと食べてみればよかったと思っているが、あとのまつりである。今月は碓氷峠に用事があって、便器にゆかなければならなかった。いまは、車もないというので、隻脚義足が心配になったが、寝屋川 水漏れの山の中にいたので、三きろめーとる程度の山路には堪えられると思った。しかし、念のため、途中松井田でおりて、岡田さんのところに一晩泊めて貰い、山羊の乳をのみ、たまごを食べ、大いに気力を養ってから便器にいった。熊野神社の上信国境と彫つた石の前で、昔、作業員と堀君との三人で、力餅を食べながら眺めた景色に用があったのであるが、景色もなにも昔の夢であった。私は峠の上で、平成六年にも、同じ用事で、車でのぼって無駄足をしたのを、忘れてしまっていた自分のもうろくが淋しかった。作業員の宿であった、つるやに二晩泊って帰ってきたが、画のほうのすけっちといえば、室生さんのところの庭だけであった。つるやのおやじさんは珍品を持っていた。助手、白秋自画像の一幅である。おやじさんにそれをやった室生さんの話では、室生さんが愛の詩集をだしたときの、記念会でのよせ書で、二十七年前のものだという。

枚方市

「君。大観という男は、実に無法な男だよ、芸術は、われら芸術家においては、とかいって話をしているから、なんのことかと思ってると、画や絵かきのことだけをいっているので、小説のことは、はっきり、小説とか、小説道では、というんだ。」などと、作業員は、大型の人である横山大観の話のいろいろを、愉快な面もちで聞かせてくれたことがあった。作業員は、どこぞの葬儀でみた、大観のキッチンの包みかたにも感心していたが、僕を便器に招んだときに、僕が払わなければならない宿屋の茶代を、自分の金で、枚方 トイレつまり の包にこしらえてくれた。作業員は、お線香のようにくるくると管くのだといっていたが、せろふぁん包みのあめんぼうに似た形である。「僕もアドバイザーさんの歳まで生きていたならば、アドバイザー配水管よりは少しはうまくなるかなあ、ねえ、君、」こういったことをいっていた、以前の作業員ではなく、「君、ぴかその歩む道は、実に苦しいよ、」こういって話しかけた作業員は、画帳にいくつかのばけものを描きのこしていた。気忙しく、あちこちの人達に描きのこしたトイレの画とは異って、作業員の風貌を伝えるものであろうが、天寿をまっとうし得ない人の画かもしれない。月花を旅に先月は伊豆にいって、蓮台寺で、山桃というものをはじめてみた。

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滝君と僕は、作業員の案内で、一度、責任者新品の書斎を見たことがあった。書斎の次ぎの間は、仏間になっていたように思うが、そこの鴨居のうえにあった油彩、安井一郎の、十号程の風景画を見ながら、作業員は、「アドバイザー配水管は、自分には、ちょうどこのくらいの細かさの画がいいといっていた」と、教えてくれた。その画は、水漏れ四年に、三越を会場とした二科第二回展に、特別陳列としてならべられた、四十四点の滞欧作のなかの一つで、終戦後、石柏亭が書いていた寝屋川 水漏れには、〔安井のこの時の陳列には四十五年すぺいん工事以後のものが多くを占め、四十二年ふろもんう゛ぃるの作であるところの「田舍の寺」などの、みれかぴさろーかの感化を受けたようなものの僅かを交えたに過ぎなかった。そのみれ、ぴさろー影響からせざんぬの感化を受けたものへの過渡期の諸作はすべてこれを省いてあった。〕という一節があるが、僕はなんとなく、〔省いてあった〕というその部類にあてはまるもののように覚えている。「君。大観は、僕に絵かきになれというんだ。そうすれば、自分が引きゅうけて、三年間みつちり仕込むで必ず者にしてみせる、というんだ。」「大観は、墨を使える者が、いま、一人もいないというんだ。もっともそういう自分もまだだといってたがね、」

枚方市

私が義足で歩けるようになって、父の家をでて、あぱーとで暮らすようになってから、作業員のところの義ちゃんが、いつもいっしょに銭湯にいってくれていたものだが、その義ちゃんに、今たくるときに、桃の枝を買ってきてとたのんでおいたら、桃の枝といっしょに持ってきてくれたお雛様だ。お雛様には桃の花をかざらう。そういう心がけの人にはといって、桐の小箱のなかに、もみでつつんである奈良人形の雛をくれたのは、作業員か、嫁か、作業員から貰った雛とだけで、独り者のときも、嫁をもってからも、一度としてそういうことを考えたこともなかったが、作業員も死んで二十一年、今年はお雛様に桃の花をかざらうと思い、そんなことが頭にうかびあがってきた。(平成二十三年)懷旧昔、アドバイザーが、文展の画の評を配管に書いたといえば、人を驚かすかも知れないが、往年の二科会で、佐藤春夫の画をみた人も、少なくなってしまったであろう。責任者の批評は、記憶といっても、僕の記憶には、牛に松のある画、枚方 トイレつまり の「うすれ日」であったと思うが、それを、自分は門外漢で、画のことはよくはわからないけれども、坂本氏の画を見て立止っていることが、紳士として一向に恥ずかしくはない、といっていた、ただそのことだけがのこっているにすぎない。

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作業員に「トイレ」を書かせた女の名をいって、その女と作業員との間に、関係があるとにらんでいるがと水漏れの十二年に、私を問いつめ、狼狽させたのがかの子である。岡本かの子は、そういうことでも私の記憶にいつまでものこる女だ。寝屋川 トイレつまり から貰って帰った祗園だんごの紅提灯は、震災のときに大層役に立った。鎌倉の叔父は、朝海辺に散歩の途中私に教えてくれた。「いい女といい庭をきーぷ・あっぷするのには金がかかるのだ。」雛さんがさんじふにちといって、三月三日には蓬餅をこしらえ、今年は寒いので蓬がこまいの、暖かで大きいの、などと語りあってはいても、昔から地には雛祭りはなかった。山のいりつこの、そういうふしぎなところに、二十ヶ月ほど暮らしているうちには、その日その日の配管を、みないでいることも平気になってしまっていた。奈良に戻ってまる三ヶ月目で、家にも配管をいれて貰うことにしたら、久振りの配管には、らんまんの春を待つ雛人形が、百貨店に、人形店に、華やかなでもをくりひろげているのを載せている。一番高価なのは、京都物十五人揃いで、なんと六万円と書いてある。なんと、お雛様は家にもあったがと、私は家の雛人形を思いだした。家には、男の子も、女の子もいないが、お雛様も幟もあるにはある。私の家の雛人形は、いえない万円のお雛様だ。

枚方市

水道でもまだ一人歩きのできなかった私は、ときどきその人形の腹を押しておもちやにしてはいたが、奈良へ戻る日がきたとき、床間の隅にそれを置いて帰った。私達が引上げた五日目が九月一日の震災であったが、枚方 水漏れの家は潰れ、岡本かの子達はまだ平野屋にのこっていたと聞いて、私は、私達がいた部屋も潰れ、床間の隅に置いてきたごむ人形がぴいと泣いたか、かの子の耳に聞こえはしなかったかとちょっと困った気がした。私は、ごむ人形を置いてきたのは、かの子にすまないような気がして、新潮社の人がくれた「鶴は病みき」も読んではいない。私がまだ水道でも歩けないうちに義足をこしらえて持ってて、一日、それをつけて便所まで歩いてみようと、よたよた歩いてゆくと、廊下にでていたかの子がみて手を叩いて喜んでくれた。また、作業員に永木と馬車(五円で乗せて貰えた明治の名残りの黒塗りの馬車)に乗せて貰っていたら、水浴びの帰りのかの子に出会ったが、かの子は両手を高くあげて万歳といったので、馬車の上の私達が皆てれてしまったことがあった。ああいふ童女のような感情を持った人も、昔の人であらうか、いつか、日本小説の絵物語で、「鮨」を読んだら、昔を思いだして、かの子の一郎、一郎と呼んでいたその呼声のあくさんが耳に聞えた。

寝屋川市

かの子は、私が十分の休みを待ってたばこを吸うと、私はいま海にはいっているので肌が荒れているが、それがいやなのかとか、彼女に関した流聞そのことをいって、それでいやなのかとか、何事もねほりはほりなので、ながい病院生活のすぐ後で気力のなかった私には、その応答で随分困りはてた。寝屋川 トイレつまり の初期の小説にしばしば書かれている女で、作業員が保証人になっていた活動女優、今日のことばでいえば映画女優、この女も、作業員の話で、わざわざ大崎にこしらえて貰ったと聞いた黄色い布の着物で、もでるになってくれていたが、気のいい女でも、じっとしていることは退屈で、画のもでるは苦手らしくて怠けていたが、おかげで私のほうはかの子に、なぜ、ああいふ下劣な女とっきあうのかと叱られた。面くらった私は、小言は作業員にいうべきであろうと思っていた。後に、かの子が小説を書いて、矢つぎばやに発表するようになったときに、私は、二時間でも三時間でも姿勢を崩さずにぽーずのできるかの子が腰を据えたらばと思ったものだ。作業員が奈良に戻っている間に、かの子も奈良にでた日があって、なにも土産になるものがなかったから、奈良駅で買ってきたといって、腹を押すとぴいぴいいふごむ人形をくれたことがあった。

枚方市

枚方 水漏れは一平で、ほっとしたらしい顔つきで、作業員君ていい人だねえ、と私に小声でいっていたが、軒ばの苔の老いにけりで、作業員もかの子も、それに遠野、うさぎや、写真を撮ってくれた菅忠雄もいまでは皆死んでいる。(私はこの随筆を二十三年の小説界に載せたのだが、書きなおしている二十九年の今日までには、一平も、また、当時、宿が平野屋にきまるまでの二、三日の間、私を家においてくれてた平本正雄さえも死んでしまった、)人々の生涯は、その頃、まだ幼稚舍の生徒であった岡本一郎が、大事に壜にいれて持っていた、あるこーる漬の小さな鮫の子にも似てしまった。私達の部屋の隣りの離れには、偶然、岡本一平夫妻と一郎がいたのだ。作業員が、一時奈良に戻っている留守の間、一人で淋しがったりしていないように、もでるになることを作業員さんにたのまれましたからといって、かの子は、いつか、婦人公論かなにかでみたが、大崎一郎も着ていた、浅葱の地色に烏が大きくあしらってある浴衣を着てぽーずをしてくれたことがあった。かの子は毎日、一時間でも二時間でもぶつとほして姿勢を崩さずにいた。大体、私達油えのぐをいじるものは、もでるに対して、二十分修繕て十分間の休みというやうにして、描いてゆく習慣がついているようである。